とある街での随感随筆

ぱっとみ専業主婦の感情と思考と生活の記録

大切なものはいっぱいあるけど並列じゃない

日本への一時帰国までもう6週間。

母とケンカをした。

 

私がクリスチャンになったのも母の影響だし、いっちゃんが生まれる前は2年ほど毎朝videoチャットでデボーションをしていた。

教師という大変な仕事をしながら私たち兄妹を育てたことも尊敬している。

 

だけど、いっちゃんが生まれてから気づいてしまった。

自分がいつも寂しい想いをしていたのに、一生懸命我慢していたことを。

そしてその仕打ちは、長い年月をかけて感覚を鈍らせてきた自分に対してされる場合は「慣れ」のおかげで我慢することも受け流すこともできたが、大切ないっちゃんに対してなされると我慢がきかずケンカになってしまうのだ。

 

母はいつも私たちが帰ってくるのを楽しみにしていると言ってくれる。いっちゃんの面倒もいっぱい見てあげる、と。確かにその時は純粋にそう思ってくれているのはわかる。だから私もついつい母の言葉を鵜呑みにしてしまう。そしてうっかり自分の期待値を高めて、そして打ち砕かれる。

 

前々回の帰国は5月だった。

母が丹精込めて育てたバラがきれいに咲くから、見せたいからその時に帰ってこいと言われたから。

いっちゃんは日本初帰国だった。

 

主人の実家では長年望んでやっと私たちのもとに来てくれたいっちゃんに誰もが時間をたっぷり割いて、いっちゃんの一挙手一投足に私たちと喜びを分かち合ってくれた。

私は自分が心から慈しんでいるものを主人の家族も慈しんでくれることに対して、とてつもなく大きな喜びを感じた。それに附属して昔から仲は良かったけれども、主人の家族に対する愛情が一層深まった。

 

そんな想いをもったままの実家へ凱旋。父はいっちゃんに初めて会う。母は出産時に私たちのもとに来てくれたけれど動き回れるようになったいっちゃんはもちろん初めて、2度目の対面だ。当初1週間ほどの滞在予定だった。私も自分が通っていた教会に行きたかったのでギリギリ実家での滞在を延ばして2回日曜日を地元で過ごせるように旅程を組んだ。

けれど実際は、母はいつも通り忙しく父もいっちゃんと過ごすより、犬が寂しがるからといっちゃんより自分の部屋で犬とテレビと過ごす時間が長かった。

父はいい。確かに寂しく感じたしもう少しいっちゃんと遊んでくれてもいいのにと不満にも思ったけれど、父が愛情表現が下手なのは知っているし、父なりに愛情を示してくれた(プレゼントを買うというのが昔からの父の愛情表現だ)し、父はそもそも私の期待値をあげる言動をしていないので特段私も期待していない。これはまぁ、義理の父に対しても同じだ。プラマイゼロからのスタートなので、基本的に少しずつのいっちゃんへの愛情を示してもらうことでプラスでその滞在を終える。

 

そして、母はいつも通り忙しかった。仕事は退職しているが、教会の諸々の役員会や庭を見せるのにお友達も何組か遊びに来る予定になっていたし、私たちの滞在予定の数日後には以前ホームスティしていた子が泊まりに来る予定だった。

 

そして事件は起きた。

だれかお客様がいた気がするが、記憶は定かではない。親戚のおばさんとか、あまり気を使わなくても良かった人だと思う。私も含め母はお気に入りのティカップでお茶を飲んでいて、私はそんな優雅にお茶を楽しんでいる余裕はない、いっちゃんが絶えず動き回るから、と口を酸っぱくして母に言っていた。今も危ないよ、と。6ヶ月のいっちゃんは母が座っているダイニングチェアの背もたれと母の間で伝わり歩きをしていて、時折床を見下ろしている。いっちゃんは4ヶ月になる前からハイハイを始め、主人が職業柄気合を込めて運動させているので同月齢の子よりはるかに動きが俊敏で、そして絶えず動き回る。私は、あぶないあぶない、と母に言い続け、母は大丈夫大丈夫と言っていた。ちゃんと見ててね、と言い残し私がほんの一瞬、自室に荷物を取りに席を立った30秒後、いっちゃんの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

いっちゃんのおでこには茹で卵みたいなたんこぶができていて、何が起こったかは一目瞭然だった。

私はすぐに「ちゃんと見ててねって言ったのに!」と母をなじった。私には母がいっちゃんより自分の優雅なお茶の時間を大切にしたと思われた。

そして、出産の時に私の手伝いをしにきてくれた時、初めての新生児を抱えている私に「一緒に聖書を読めると思っていたのに全然読めない」と怒ったことも続けて思い出された。

 

実家に滞在中、私たちは忙しい母の日常に組み込まれた訪問者だった。家族のように大切にされる、ホームステイの学生みたいな感じだったのか。

 

私はいろんな想いが込み上げてきて、母が私たちに十分に母の時間を割いてくれないことがとんでもなく悲しくなって、いらだたしく感じ、泣きながら父と母にどうしてもっとちゃんといっちゃんに時間を割いてくれないのか、家族でゆっくり過ごしたいと懇願した。何日の母の友人の訪問は私たちが帰った後に変更してくれと。でも父は母には母の予定があると言って私の要求はわがままと処理された。母がいっちゃんをいっぱい見てあげる、といってくれていた言葉に期待値を高めてきた自分の愚かさに腹が立ち、ここにいても悲しさと惨めさが募るだけだったので、主人に旅程を変更するように頼んで出来る限り迅速に主人の実家に逃げ帰った。

 

そして、そこでいっちゃんにたっぷり時間と目と手を注いでくれる義理の父母の姿を見て、やっと落ち着いた。

 

今回のケンカの発端も、16ヶ月ぶりの帰国に際し、主人の長年の夢であった仕事が東京で土日に入り、私も主人を手伝わなければいけないので、母に東京に来て仕事の間いっちゃんを見てくれないかと打診したのが原因だった。母は、その日は教会のバザーだったら行けない、主人の仕事を金曜日にできないのか、と言った。

義理の妹は帰国の1ヶ月前に赤ちゃんを産む予定なので義理の母はそのお世話で忙しいだろうから、なるべく手を煩わせたくないと思っていたし、主人の母に頼むとなるといっちゃんは2泊3日パパとママから離されることになる。母が今おじいちゃんの介護で大変だろうとは思っていたが、1日くらい、1年に1回のお願いくらい、しかも外せない仕事のために、私のお願いを優先してくれるのではないかと勝手に期待していた。

 

そして、母の数ある大切なものの中で私たちはその都度ごとに優先順位を比べられるその他のモノと対等な位置関係にあるんだな、と知る。少なくとも、そう感じる。

1年に1回しか会えない孫は母にとってその滞在中は出来る限り(おじいちゃんの介護を放棄しろと言ってるわけじゃない)時間と目と手を注ぐ対象ではないと再認識した途端、情けなさと悲しみと涙が溢れた。

わがままを聞いてもらえなかったから怒っているんじゃない。子供の頃から気づかないふりをしていた寂しさを自覚してしまったのが辛いんだ。そして私の宝物のいっちゃんと共に過ごす時間に価値を置いてもらえないのが辛いんだ。

 

だったら最初から純粋そうにこっちの期待値を高める発言を控えてほしい。

 

私がこちらで通っている小さな教会で、ある日主任牧師夫人が礼拝中に静かに泣き出した。気づかない人は多かったと思うけれど、その時主任牧師はすぐに席を立って彼女の側に行き、彼女を礼拝堂から連れ出した。その日はたまたま彼の説教の日ではなかったけれど、いつもピアノを弾くので壇上にはいる。そしてその日はそのまま、少なくとも私たちが帰るまではみんなの前には現れなかった。そんな彼を職場放棄だ、というか礼拝放棄だと腹をたてる人はもちろん誰もおらず、みんな牧師夫人を心配していた。そして私と主人は、 そんな夫人の異変をすぐに見つけてなんの迷いもなくさっと最善の行動をとった牧師の行動が素晴らしい、さすがだね、と言い合っていた。あの時の彼女に必要だったのは、きっと礼拝以上に彼の支えと彼と二人で静かに祈ることだったと思うから。

 

私たち兄妹は絶えず母の愛情に飢えていたんじゃないだろうか。愛情は確かにある。ただ、母は絶えず仕事や趣味や社交や教会に忙しかった。私は同じ女だから言葉に出す分母とケンカもする。兄はそんなことは何も言わないが、実家のとなりに家を建て、転勤を可能な限り回避してきた。大人になった今でも、少しでも母の愛情を自分と自分の娘たちが実感しやすいように物理的に側にいるのではないか、と邪推してしまう。

 

私にとっても大切なものはたくさんある。忙しい現代社会ではその時々で対処すべき優先順位が変わってくるが、いっちゃんには絶対の愛情を示し続けたいと思う。そして主人にも。思いを尽くして、言葉を尽くして示そうと思う。

 

神様の愛情はすごい。一人一人に自分は特別に愛されているときちんと確信させることができるから。