とある街での随感随筆

ぱっとみ専業主婦の感情と思考と生活の記録

クリスチャンと不妊治療

子どもを与えられることは人生の大きな喜びであると思います。実際、いっちゃんは私の生活において絶えず笑いと喜びと、心配や様々な感情を与えてくれて、それまでもそれなりに楽しく充実した生活を送ってきたと感じていた私の人生を圧倒的な強制力でよりカラフルに塗り替えてくれました。受洗前に牧師先生に「神様は三位一体で完璧であり、寂しさもないだろうになぜ人間を作ったのか」と聞きました。神様は愛する対象が欲しかったのだよ、というお答えでした。まだ20歳を過ぎたばかりで、ちょうど仔犬を飼い始めた時期だったので、その仔犬に重ねて納得したのを覚えています。私達が子どもができずに苦しい想いをしているのは愛する対象を渇望しているからなのか、と思っていました。

 

いっちゃんは4年間の不妊治療の末、体外受精で授かりました。

 

26歳の時に結婚し、結婚後2ヶ月で最初の妊娠をしました。しかし、仕事がまだしたかったこともあり戸惑いながら過ごしていると最初の7週で超音波をとり元気に成長していると思ったら翌週に出血、超音波で心音が確認できずその後自然流産となりました。戸惑っていたのにとても悲しく、私が戸惑ったからだ!とも思いました。ぬいぐるみを一つ買って箱に超音波の写真と一緒に入れて今も持っています。

 

その後4年ほどは仕事も楽しくそのうちにできる、と思って過ごしていましたが、全く兆候がなく、私より後に結婚した友達が次々と妊娠出産、仕舞いに2人目できたよ、なんてことになり、友人の子供たちはみなかわいいなとは思いましたが、心はどんどん苦しくなっていきました。

 

不妊治療を開始するにあたり、まずは私達夫婦の検査でしたが2人とも特に問題なく、以前自然妊娠したことからサプリの服用とタイミングを勧められました。しかしその後1年経っても妊娠にかすりもせず、体外受精へと進みました。

 

その時一番苦しかったのは、クリスチャンである母から体外受精への理解を得られず、祈っていればいつか与えられる、という言葉や態度でした。夫婦ともにクリスチャンで3人4人と子どもを与えられている友人が周囲にいて、彼らにとても引け目を感じていました。私の信仰が弱いから、私の祈りが足りないから、夫がクリスチャンではないから(クリスチャンではありませんが、共に祈ってくれます。結婚前には教会の結婚準備講座も通ってくれました)…


聖書では多くの不妊の女が出てきますが、それこそアブラハムの時代からエリザベートまで、彼らは最終的には与えられます。そして、きっと熱心に祈った時期を通り越してほぼ諦めながら過ごしていたであろう日々に授かります。それは一方的な神の御恵によって。

 

1度目の体外受精は上手くいかず、その後1年治療は中断しますが、その間ストレスを減らすためにも仕事を辞め、時間的な余裕もあり毎朝母と聖書を分かち合っていました。そして次第に母の考えも変えられていったのです。

 

治療再開後すぐの2回目の体外受精でいっちゃんを授かり、あまりの嬉しさに流産の可能性もほぼ頭をよぎらず、生まれるまでただただ感謝と健康に生まれてくること、神様の祝福を与えられますようにと祈り続けていました。

 

私はいっちゃんを与えられますようにと、それこそその4年ほどは人生で最も真剣に祈りました。多くの教会員やクリスチャンの友人にもとりなしのいのり をしてくれるようお願いしました。実際夫婦ともに身体的に問題はないと言われた私達がなぜ授かれないのか、とても苦しかったです。最終的には体外受精という最新の医療技術を用いましたが、ドクターを心の拠り所と考えたことは一度もなく、ただただ神様の一方的な御恵によりたのもうと祈っていました。体外受精さえ100%で授かれる訳ではないのですから。

 

私が妊娠無事出産したことで、人工授精に消極的だった母が変わりました。しかし、金銭的にも体力的にも精神的にも決して誰もができる、継続できる治療ではありません。なので私は人に勧めることはできませんし、あまり私達を知らない人にも言いたくはありません。決して隠している訳ではないのですが、中には金持ち自慢と受け取られる人もいるので。

 

もしクリスチャンの方が不妊で苦しんでおり人工授精を考えられているのなら、それは決して科学信仰ではないと理解していただきたいと思います。理解ができないのであれば、ただ決して人工授精なんていかがなものか、という批判めいたことを口にだし、彼らの苦しみを増幅させるようなことだけはしないでいただきたいと思います。共に祈ってくださるだけで、神様は私達に益となることを与えてくださるのです。