とある街での随感随筆

ぱっとみ専業主婦の感情と思考と生活の記録

クリスチャンと不妊治療

子どもを与えられることは人生の大きな喜びであると思います。実際、いっちゃんは私の生活において絶えず笑いと喜びと、心配や様々な感情を与えてくれて、それまでもそれなりに楽しく充実した生活を送ってきたと感じていた私の人生を圧倒的な強制力でよりカラフルに塗り替えてくれました。受洗前に牧師先生に「神様は三位一体で完璧であり、寂しさもないだろうになぜ人間を作ったのか」と聞きました。神様は愛する対象が欲しかったのだよ、というお答えでした。まだ20歳を過ぎたばかりで、ちょうど仔犬を飼い始めた時期だったので、その仔犬に重ねて納得したのを覚えています。私達が子どもができずに苦しい想いをしているのは愛する対象を渇望しているからなのか、と思っていました。

 

いっちゃんは4年間の不妊治療の末、体外受精で授かりました。

 

26歳の時に結婚し、結婚後2ヶ月で最初の妊娠をしました。しかし、仕事がまだしたかったこともあり戸惑いながら過ごしていると最初の7週で超音波をとり元気に成長していると思ったら翌週に出血、超音波で心音が確認できずその後自然流産となりました。戸惑っていたのにとても悲しく、私が戸惑ったからだ!とも思いました。ぬいぐるみを一つ買って箱に超音波の写真と一緒に入れて今も持っています。

 

その後4年ほどは仕事も楽しくそのうちにできる、と思って過ごしていましたが、全く兆候がなく、私より後に結婚した友達が次々と妊娠出産、仕舞いに2人目できたよ、なんてことになり、友人の子供たちはみなかわいいなとは思いましたが、心はどんどん苦しくなっていきました。

 

不妊治療を開始するにあたり、まずは私達夫婦の検査でしたが2人とも特に問題なく、以前自然妊娠したことからサプリの服用とタイミングを勧められました。しかしその後1年経っても妊娠にかすりもせず、体外受精へと進みました。

 

その時一番苦しかったのは、クリスチャンである母から体外受精への理解を得られず、祈っていればいつか与えられる、という言葉や態度でした。夫婦ともにクリスチャンで3人4人と子どもを与えられている友人が周囲にいて、彼らにとても引け目を感じていました。私の信仰が弱いから、私の祈りが足りないから、夫がクリスチャンではないから(クリスチャンではありませんが、共に祈ってくれます。結婚前には教会の結婚準備講座も通ってくれました)…


聖書では多くの不妊の女が出てきますが、それこそアブラハムの時代からエリザベートまで、彼らは最終的には与えられます。そして、きっと熱心に祈った時期を通り越してほぼ諦めながら過ごしていたであろう日々に授かります。それは一方的な神の御恵によって。

 

1度目の体外受精は上手くいかず、その後1年治療は中断しますが、その間ストレスを減らすためにも仕事を辞め、時間的な余裕もあり毎朝母と聖書を分かち合っていました。そして次第に母の考えも変えられていったのです。

 

治療再開後すぐの2回目の体外受精でいっちゃんを授かり、あまりの嬉しさに流産の可能性もほぼ頭をよぎらず、生まれるまでただただ感謝と健康に生まれてくること、神様の祝福を与えられますようにと祈り続けていました。

 

私はいっちゃんを与えられますようにと、それこそその4年ほどは人生で最も真剣に祈りました。多くの教会員やクリスチャンの友人にもとりなしのいのり をしてくれるようお願いしました。実際夫婦ともに身体的に問題はないと言われた私達がなぜ授かれないのか、とても苦しかったです。最終的には体外受精という最新の医療技術を用いましたが、ドクターを心の拠り所と考えたことは一度もなく、ただただ神様の一方的な御恵によりたのもうと祈っていました。体外受精さえ100%で授かれる訳ではないのですから。

 

私が妊娠無事出産したことで、人工授精に消極的だった母が変わりました。しかし、金銭的にも体力的にも精神的にも決して誰もができる、継続できる治療ではありません。なので私は人に勧めることはできませんし、あまり私達を知らない人にも言いたくはありません。決して隠している訳ではないのですが、中には金持ち自慢と受け取られる人もいるので。

 

もしクリスチャンの方が不妊で苦しんでおり人工授精を考えられているのなら、それは決して科学信仰ではないと理解していただきたいと思います。理解ができないのであれば、ただ決して人工授精なんていかがなものか、という批判めいたことを口にだし、彼らの苦しみを増幅させるようなことだけはしないでいただきたいと思います。共に祈ってくださるだけで、神様は私達に益となることを与えてくださるのです。

 

愛の定義

コリント一 13:2-9,13

 

4節は最も有名なところですよね。クリスチャンでなくとも結婚式などで聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

 

でも今現在の、私の注意を引き付けたのは2節と13節です。

たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 2節

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 13節

 

ここ2、3日の母との静かなケンカは、私に毎日涙を流させるに十分なほどの悲しみでした。そしてそれは母にとっても同じ様です。

 

私は私たちが仕事の間東京に来ていっちゃんを見てくれないかと打診した時、教会のバザーが…と言った母に、瀕死の人を見捨てて(私としてはいっちゃんに最善の方法と思って母に予定を打診していたのでにっちもさっちも行かない気分だった)教会に急ぐ祭司の様だと非難した。そしてクリスチャンでない義理の母は二つ返事で引き受けてくれた、と後で連絡して、誰が私にとっての善きサマリア人だったのかを暗に匂わした。

 

そしてこのコリント一13:2と13が心に引っかかることで、またもや母の信仰を責める気持ちになっているのではないか、と気がついた。あなたの信仰は愛を伴っていない、と。実の娘である私とお祈りの果てにやっと授かったいっちゃんは、大きな愛情を受けて然るべきだと。ましてや、滅多に会えないのに、と。

 

愛は

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 5節

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 7節

 

私は母を愛しているので、たとえ彼女が私が望む様にはいっちゃんに接してくれなくとも、いらだたず、恨みを抱かず、それに耐えよう、と思う。悲しみは、感じてしまえばそれはどうしようもないので、主人といっちゃんとイエス様に慰めてもらおう。

ただ、今は信じるには傷つきすぎているので心の予防線のために、実家での滞在を最小限に留めるか、それとももう一度私たちが長く滞在する(そうはいっても6日位が限度)ことで母が喜んでくれると信じるべきか。

 

今日、やっておきたい仕事や家事は山の様にあるけれども、今、私にはイエス様の言葉が必要で、それでこうやって自分の感情をまとめている。そして、私の言葉によって傷付いている母を慰められるのも私だと思うので、(聖書の言葉に慰められているとは思いますが)、そしてこのエントリーを書きつつも涙が出るほどに静かに傷付いている自分のために、母に電話しようと思う。

 

 

どうして、お互いクリスチャンであるのに、こんなに傷付いているのだろう…

父が元気のない母を心配して、珍しく私に電話してきてケンカの事と次第を尋ねた。私は、公平だと思われる事実を父に話し、自分が感じたことも、こう思った、これは私の主観だが、ということをちゃんと付け加えて話した。話せば話すほど父は笑った。そんなの、お母さんをわかっているだろう、と。その後、主人にも母とケンカしたことを伝え、事と次第を公平に事実を伝えるべく努力しながら言った。父に笑われたことも。やはり主人も聴けば聴くほど笑いながら、おかあさんだね、と言った。一歩離れたところにいる主人と父にとっては、ほんっとうにくだらないことに見えているだろう。そして、おそらくそれが正解だ。

でも主人は私の気持ちを察してくれて、寂しかったんだよね、と一言言い添えてくれた。そこでやっと私の母への苛立ちが寂しさからきているものだと気づかせてくれた。

 

自分の感情の正体がなんなのかを正確に把握することは案外に難しい。

 

私のそれを的確に見抜いてくれた主人は、私をよく理解してくれているし、私の気持ちに寄り添ってくれていて、本当に感謝している。私はそこまで深く主人を愛せているのか、彼の気持ちに寄り添えているのか。

私に彼を与えてくれたことを神様に感謝しつつ、彼とはたくさん語らっていきたい。

 

 

マルタとマリアの話で想うこと

ルカ10:38ー42

イエス様一行がある村でマルタの家に立ち寄り説教をしていた時、姉のマルタはもてなしの準備に忙しく、妹のマリアはイエス様の足元でずっと話を聞いていた。不満に思ったマルタがイエス様にマリアに手伝うように言って欲しいと頼むと逆に必要なことはただ一つだけ、マリアは良い方を選び取った、と諭されてしまう。

 

今までこの話はあまり好きではなかった。というか、きっと本質が実感を伴って理解できていなかったんだろう。マルタに感情移入してしまい、マリアはちゃっかりおいしいところを持っていってずるい、マルタのやっていることだって、とっても大切だよ!とマルタ弁護をしていた。

 

大和撫子という古風で雅な考えは持ち合わせていないが、これでも主婦の端くれでたまにホームパーティーなどを開いている私には、大切なお客様に美味しいものをお出しして精一杯おもてなししたいというマルタが否定されることが理解できなかった。そりゃイエス様のお話を自分だって直に聞きたい、でもお話を終えられたイエス様が喉が渇いていたら?お腹が空いていたら?自分が動かないと何も整わないのなら、自分がやるしかない、と思い、私でもきっといそいそと準備をしていただろう。

 

ここで、美味しいお料理を出すことで見栄や自尊心を満たしたいという想いが100%なかったと仮定しておく。(本当は、誰にでも絶対に少なからずあるとは思うけれど) そういった邪念が全くなく、マルタの気配りや先読みが全てイエス様を精一杯おもてなししたいという純粋な思いだけで行なっていたとしたら?それでも否定されるのか?理不尽だなぁ。

 

でも、マルタはここでイエス様が何を切実に求めているか、に思いを馳せていない。イエス様はマルタの働きをきちんと認識されている。イエス様は私たちを救いたくて救いたくて身体が焼き尽くされるほどの想いを持っていらっしゃったのに。そして私たちが救われるにはイエス様のお話を全身全霊で聴き、受け止めるしか方法はなかったのに。

 

確かに、綺麗に剥かれテーブルに並んだ蟹料理は美味しいし、高価な食器で食べる料理は育児で疲れ気味だった私にはいいリフレッシュだったかもしれない。(本当は高いお皿はいっちゃんが割ってしまうんじゃないかと思って気疲れしてしまうけれども)母が私たちに美味しいご馳走を食べさせたいという気持ちは痛いほど分かるし、感謝している。けれども、私は母がいっちゃんの成長の喜びを私ともっと分かち合ってくれることを切望していた。もっといっちゃんに時間を割いてくれることを、渇望していた。

 

いっちゃんは今日、私がたっぷりと時間をかけて作った野菜たっぷり栄養バランスもしっかり、味付けもいっちゃん好みの夕食を殆ど食べずに散々遊んでベッドにきた。寝かしつけの本も最後の一冊を読み終わりキスして電気を消しておやすみ、と私が狸寝入りをしたところでお腹がへったと泣き出した。しばらく無視しようとしたが、泣いた分だけお腹も空いてかわいそうだし、そんなんじゃゆっくり寝れなくて後で起こされちゃかなわないと、結局すぐに一緒に台所に行く。自分の椅子に行儀よく座り、ちっちゃな海苔おにぎりをチョンチョンとお醤油につけて、おいしいねー、ママ美味しいねーと言いながら笑顔で食べるいっちゃん。少し複雑な想いを抱きながらも(躾とかいろんな要素も混じってくるし)よかったねー、と応える。

 

この時のいっちゃんが求めていたものは、質素でもお腹を満たせるものと、私の笑顔だったのだ。それを与えてあげることができたことに感謝しつつ、私の笑顔を欲してくれるいっちゃんに愛しさが込み上げてきた。

 

本当に必要なことはただ一つだけ。

大切にしていることはいっぱいあるが、それぞれの本質を見抜き、自分にとって一番大切なことが何なのかを見極めることが大事だと思う。

イエス様を愛し、また愛されてもいたマリアは、貴重な一瞬一瞬をどう過ごすのが二人にとって正しいのか、本能的に分かっていたのだろう。

 

 

ちょっと脱線だが、思いついたので徒然に記録。

その人をどれだけ深く愛しているかで、その人にどれだけ深く寄り添えるのか、が変わってくると思う。世の中には「人たらし」というか、とても上手に人の懐に入り込み、その人の話を熱心に聞いてあげたり、聞きたがっていることを察して語ったり、あたかも隣人の様に振る舞うのが上手く、そのくせ追い剥ぎだったりする人がいる。そしてそれを無意識に行なっている人もいる。

自分が人と接する時、心に愛を持って接しているのか、毎回気をつけたいと思う。 

 

 

 

大切なものはいっぱいあるけど並列じゃない

日本への一時帰国までもう6週間。

母とケンカをした。

 

私がクリスチャンになったのも母の影響だし、いっちゃんが生まれる前は2年ほど毎朝videoチャットでデボーションをしていた。

教師という大変な仕事をしながら私たち兄妹を育てたことも尊敬している。

 

だけど、いっちゃんが生まれてから気づいてしまった。

自分がいつも寂しい想いをしていたのに、一生懸命我慢していたことを。

そしてその仕打ちは、長い年月をかけて感覚を鈍らせてきた自分に対してされる場合は「慣れ」のおかげで我慢することも受け流すこともできたが、大切ないっちゃんに対してなされると我慢がきかずケンカになってしまうのだ。

 

母はいつも私たちが帰ってくるのを楽しみにしていると言ってくれる。いっちゃんの面倒もいっぱい見てあげる、と。確かにその時は純粋にそう思ってくれているのはわかる。だから私もついつい母の言葉を鵜呑みにしてしまう。そしてうっかり自分の期待値を高めて、そして打ち砕かれる。

 

前々回の帰国は5月だった。

母が丹精込めて育てたバラがきれいに咲くから、見せたいからその時に帰ってこいと言われたから。

いっちゃんは日本初帰国だった。

 

主人の実家では長年望んでやっと私たちのもとに来てくれたいっちゃんに誰もが時間をたっぷり割いて、いっちゃんの一挙手一投足に私たちと喜びを分かち合ってくれた。

私は自分が心から慈しんでいるものを主人の家族も慈しんでくれることに対して、とてつもなく大きな喜びを感じた。それに附属して昔から仲は良かったけれども、主人の家族に対する愛情が一層深まった。

 

そんな想いをもったままの実家へ凱旋。父はいっちゃんに初めて会う。母は出産時に私たちのもとに来てくれたけれど動き回れるようになったいっちゃんはもちろん初めて、2度目の対面だ。当初1週間ほどの滞在予定だった。私も自分が通っていた教会に行きたかったのでギリギリ実家での滞在を延ばして2回日曜日を地元で過ごせるように旅程を組んだ。

けれど実際は、母はいつも通り忙しく父もいっちゃんと過ごすより、犬が寂しがるからといっちゃんより自分の部屋で犬とテレビと過ごす時間が長かった。

父はいい。確かに寂しく感じたしもう少しいっちゃんと遊んでくれてもいいのにと不満にも思ったけれど、父が愛情表現が下手なのは知っているし、父なりに愛情を示してくれた(プレゼントを買うというのが昔からの父の愛情表現だ)し、父はそもそも私の期待値をあげる言動をしていないので特段私も期待していない。これはまぁ、義理の父に対しても同じだ。プラマイゼロからのスタートなので、基本的に少しずつのいっちゃんへの愛情を示してもらうことでプラスでその滞在を終える。

 

そして、母はいつも通り忙しかった。仕事は退職しているが、教会の諸々の役員会や庭を見せるのにお友達も何組か遊びに来る予定になっていたし、私たちの滞在予定の数日後には以前ホームスティしていた子が泊まりに来る予定だった。

 

そして事件は起きた。

だれかお客様がいた気がするが、記憶は定かではない。親戚のおばさんとか、あまり気を使わなくても良かった人だと思う。私も含め母はお気に入りのティカップでお茶を飲んでいて、私はそんな優雅にお茶を楽しんでいる余裕はない、いっちゃんが絶えず動き回るから、と口を酸っぱくして母に言っていた。今も危ないよ、と。6ヶ月のいっちゃんは母が座っているダイニングチェアの背もたれと母の間で伝わり歩きをしていて、時折床を見下ろしている。いっちゃんは4ヶ月になる前からハイハイを始め、主人が職業柄気合を込めて運動させているので同月齢の子よりはるかに動きが俊敏で、そして絶えず動き回る。私は、あぶないあぶない、と母に言い続け、母は大丈夫大丈夫と言っていた。ちゃんと見ててね、と言い残し私がほんの一瞬、自室に荷物を取りに席を立った30秒後、いっちゃんの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

いっちゃんのおでこには茹で卵みたいなたんこぶができていて、何が起こったかは一目瞭然だった。

私はすぐに「ちゃんと見ててねって言ったのに!」と母をなじった。私には母がいっちゃんより自分の優雅なお茶の時間を大切にしたと思われた。

そして、出産の時に私の手伝いをしにきてくれた時、初めての新生児を抱えている私に「一緒に聖書を読めると思っていたのに全然読めない」と怒ったことも続けて思い出された。

 

実家に滞在中、私たちは忙しい母の日常に組み込まれた訪問者だった。家族のように大切にされる、ホームステイの学生みたいな感じだったのか。

 

私はいろんな想いが込み上げてきて、母が私たちに十分に母の時間を割いてくれないことがとんでもなく悲しくなって、いらだたしく感じ、泣きながら父と母にどうしてもっとちゃんといっちゃんに時間を割いてくれないのか、家族でゆっくり過ごしたいと懇願した。何日の母の友人の訪問は私たちが帰った後に変更してくれと。でも父は母には母の予定があると言って私の要求はわがままと処理された。母がいっちゃんをいっぱい見てあげる、といってくれていた言葉に期待値を高めてきた自分の愚かさに腹が立ち、ここにいても悲しさと惨めさが募るだけだったので、主人に旅程を変更するように頼んで出来る限り迅速に主人の実家に逃げ帰った。

 

そして、そこでいっちゃんにたっぷり時間と目と手を注いでくれる義理の父母の姿を見て、やっと落ち着いた。

 

今回のケンカの発端も、16ヶ月ぶりの帰国に際し、主人の長年の夢であった仕事が東京で土日に入り、私も主人を手伝わなければいけないので、母に東京に来て仕事の間いっちゃんを見てくれないかと打診したのが原因だった。母は、その日は教会のバザーだったら行けない、主人の仕事を金曜日にできないのか、と言った。

義理の妹は帰国の1ヶ月前に赤ちゃんを産む予定なので義理の母はそのお世話で忙しいだろうから、なるべく手を煩わせたくないと思っていたし、主人の母に頼むとなるといっちゃんは2泊3日パパとママから離されることになる。母が今おじいちゃんの介護で大変だろうとは思っていたが、1日くらい、1年に1回のお願いくらい、しかも外せない仕事のために、私のお願いを優先してくれるのではないかと勝手に期待していた。

 

そして、母の数ある大切なものの中で私たちはその都度ごとに優先順位を比べられるその他のモノと対等な位置関係にあるんだな、と知る。少なくとも、そう感じる。

1年に1回しか会えない孫は母にとってその滞在中は出来る限り(おじいちゃんの介護を放棄しろと言ってるわけじゃない)時間と目と手を注ぐ対象ではないと再認識した途端、情けなさと悲しみと涙が溢れた。

わがままを聞いてもらえなかったから怒っているんじゃない。子供の頃から気づかないふりをしていた寂しさを自覚してしまったのが辛いんだ。そして私の宝物のいっちゃんと共に過ごす時間に価値を置いてもらえないのが辛いんだ。

 

だったら最初から純粋そうにこっちの期待値を高める発言を控えてほしい。

 

私がこちらで通っている小さな教会で、ある日主任牧師夫人が礼拝中に静かに泣き出した。気づかない人は多かったと思うけれど、その時主任牧師はすぐに席を立って彼女の側に行き、彼女を礼拝堂から連れ出した。その日はたまたま彼の説教の日ではなかったけれど、いつもピアノを弾くので壇上にはいる。そしてその日はそのまま、少なくとも私たちが帰るまではみんなの前には現れなかった。そんな彼を職場放棄だ、というか礼拝放棄だと腹をたてる人はもちろん誰もおらず、みんな牧師夫人を心配していた。そして私と主人は、 そんな夫人の異変をすぐに見つけてなんの迷いもなくさっと最善の行動をとった牧師の行動が素晴らしい、さすがだね、と言い合っていた。あの時の彼女に必要だったのは、きっと礼拝以上に彼の支えと彼と二人で静かに祈ることだったと思うから。

 

私たち兄妹は絶えず母の愛情に飢えていたんじゃないだろうか。愛情は確かにある。ただ、母は絶えず仕事や趣味や社交や教会に忙しかった。私は同じ女だから言葉に出す分母とケンカもする。兄はそんなことは何も言わないが、実家のとなりに家を建て、転勤を可能な限り回避してきた。大人になった今でも、少しでも母の愛情を自分と自分の娘たちが実感しやすいように物理的に側にいるのではないか、と邪推してしまう。

 

私にとっても大切なものはたくさんある。忙しい現代社会ではその時々で対処すべき優先順位が変わってくるが、いっちゃんには絶対の愛情を示し続けたいと思う。そして主人にも。思いを尽くして、言葉を尽くして示そうと思う。

 

神様の愛情はすごい。一人一人に自分は特別に愛されているときちんと確信させることができるから。

 

 

 

 

おっぱいを売って睡眠を買う

ここ最近、いっちゃんのおっぱいへの執着がすごい。「ぱい」という言葉を覚えて、すっごい笑顔でパイパイ言いながら私に駆け登ってくる。ちょっと手持ち無沙汰になると私の胸に手を突っ込んでおっぱいを触りたがる。

 

もう、左乳首が限界だ。

 

どんな人生を過ごしたいのか 2019

私はどんな人生を過ごしたいのかな。

 

本当は今日は1週間のスケージュールを考えるつもりだった。曜日ごとに30分単位の時間割を組むつもりだった。それで良さそうなアプリをダウンロードしてみたが、まぁ不具合の多発で使い物にならない。でも、いっちゃんを迎えにいくまではまだ時間があるのでこの隙間時間に携帯1つで記録できることを考えよう。

 

80歳 

教会で親しい友人と楽しく過ごしながら孫の世話をたまにする。

›金銭的に余裕がある。子どもに資産を遺すつもりはないので、資産と呼べるものはダンナと2人で死ぬまでに楽しく使い切る。

›健康でいる。

›ホームと呼べるような教会がある。

›子どもと同居は嫌。

›老人ホームで生活している?

 

60歳

ダンナと世界中を旅行している。ヨーロッパの気に入った街に3ヶ月位住む。

›借金がない状態、あっても借金の利息+生活費<運用益の状態である。

›スポーツを楽しめるほど健康。テニス、ピラティス、水泳。

›子どもは独立。夫婦は仲睦まじく自宅で生活している。

›もし仕事に戻っていたとしたら引退?でも元気なら社会で仕事した方がいい。この頃の仕事やお金を稼ぐ方法(ベーシックインカムとか導入されているのかな?)はちょっと想像できないな。

 

10年後  (2029年)

まだ専業主婦?子ども3人欲しかったらまだまだ子育て中ですね。

›家族と人生における価値の共有ができている。→ 神さま最優先。

›教会にきちんと通っている。

›子どもの家庭教育に積極的に取り組んでいる→幼児教育の本を読み、自分なりのスタイルを確立する。

›キレイに整った家で生活している→子どもとダンナの協力が不可欠→子どもとダンナの家事能力を高める。

›キャンプや旅行やバカンスなど、子どもと一緒にイベントを楽しく過ごす。

›南アフリカ行きたい

›金曜日はゲームナイトを家族で開催。いっちゃんにボードゲームをきちんと仕込む。

›親の介護が始まる?金銭的にも援助が必要?→日本と頻繁に行き来する必要あり?

›いっちゃんを日本語が上手に話せて書ける状態に教育する

 

5年後 (2024年)

いっちゃん小学校始まる。習い事の送り迎えにかなりの時間を割かれる?

想像だけで日々の生活に忙殺されていそうだ…本気で理想が想像できない…

›ガンガン投資。20件以上は運用案件を維持。合計のキャッシュフローは必ず黒字に。

›ダンナ、得意分野で本を出版、日本で講演活動→マーケティングプランを考える。

›オシャレな格好をして仕事(多分投資かダンナのビジネスのサポート)している。

›子どもとの時間を大切に笑顔で過ごしている。

 

3年後(2022年) 

疲れを見せずに子どもと活発に遊んでいる。

›規則正しい生活を確立する。

›体力向上

›現在より投資案件+5

›教会のゴスペルコミュニティーに属する。

›年で12冊は本を読む

›庭がきれいに整っている(大仕事だな…)

›ダンナと3ヶ月に1回でいいからミュージカルや観劇デートができるようになっている。

 

2019年末までに

きれいに片付いた家で楽しく過ごす。日曜日はきちんと教会へ通っている。仕事のペーパーレス化とデータをクラウド化を進めてどこででも働けるように仕事環境を整える。

›日々規則正しく祈りと共に生きる。

›教会員の皆さんの顔と名前を覚える。

›ダンナと一緒にクリスチャニティ・エクスプロードを修了する。

›仕事のペーパーレス化を進める→iPadPro購入する。

›仕事関係の情報の管理・運用方法を見直す。

›投資関係の情報もデータ化、必要最小限の書類以外、全捨てする。

›家全体のコンマリ完了!

›12月31日の時点で家がピカピカになっていること!

›自分にあったファッションスタイルを見つける。

›自分にあったダイエット・エクササイズを見つけて習慣化する。

›クリスマスカードを親しい人たちに出す。(筆まめになりたい。大好きな信仰の先輩方は皆とても筆まめで、こちらは辛うじて返信をだしたりださなかったり…手紙を書くということはその人を覚えて想っていることを、相手にもわかってもらう手段だよね)

›キャンプに挑戦する。

›5冊は本を読み、そのレビューをここに書く。

 

 

今思いつく限りでこんな感じかな。

 

時間軸の終点から手前に目標をたてる

どんなおばあちゃんになっていたいか、と想像した時、私を飾り立てるものは削ぎ取られ、私が本当に手に入れたいもの、大事だと価値を置いているものが残ったと思う。それは全くもって陳腐なのだけれどきっと普遍的であろう

  • 神様
  • 家族
  • 友人
  • 健康
  • それを支える金銭的自由

そして、どんな表情のおばあちゃんになっていたいか、も想像する、いや、確固たるイメージを描くことも大切だと思う。きっとその通りになると思うから。自分の人生に満ち足りて、その人生に誇りを持っているので自信と優しさを持ち合わせた柔和な表情で、それでも子供のように好奇心と向上心を持ち続けていられるおばあちゃんになりたい。日本の教会ではKさん、こっちの教会ではRさんが理想だなぁ。

 

実際、曜日ごとの時間割を考える前に人生の大枠を考えれたのはよかった。これもきっと聖霊様が導いてくださったおかげで、アプリが使えなくてこれを考えることができたんだろう。このような時間を持てたこと、考えが少しまとまったこと、感謝です。これは絶えず見直し、進捗確認し、修正を加えていくことになると思うけれど、その度に祈りつつ、神様の声を聞きながら人生を歩めますように、どうか導いてください。

 

いっちゃん1歳5ヶ月、「アーメン」が言えるようになりました。

いっちゃんのおいのりの絵本。シリーズ4冊すべて持っていますが、とても気に入っています。いっちゃんが朝一番に自分で本棚からとってきて、読んでくれと持ってきます。平日はいっちゃんがママの信仰生活を守ってくれています。感謝。

かんしゃのいのり (こどものいのりシリーズ) 

 

週間スケジュールを考える (ストレス3aへの解答)

自律と自立。たしか小学校の時に行った合宿所にこんな言葉が掲げてあったような。私の場合、専業主婦でいる間は意識して自分を律して生活していないと、後々全く自立できない女に成り下がってしまうだろう。もし離婚したら?ダンナに不慮の出来事が起こったら?いっちゃんが自立した後は?

それでも私は生きていかなければならない。そして神様と共に歩む人生を送りたい。

 死ぬ時に「あぁ、いい人生だった」と感謝したい。そのためには日々を丁寧に生き、1日1日の充足感を高めていくことが大切だろう。

 

できる時にタスクは前倒しでやっておく

子育て中は本当に予定通りに物事が進まない。ちなみにいっちゃん、先々週は手足口病で一週間保育園をおやすみ、その後に罹った風邪が酷く3日間で5回も吐いた。そのあと私とダンナに風邪がうつりスローダウン、休息モードに。そういったことがこれからも多々あるだろう。それを念頭に『できる時にタスクは前倒しでやっておく』をモットーに仕事と家事(主に料理で作り置き)をがんばりたい。そのためにはタスクの把握が重要。理想はお気に入りの手帳にその日のタスクを書き込むことだが、今はおっぱい中にできる携帯アプリを利用するのが最も現実的だろうな。

 

自分を知る。詰め込まない。

保育園では「3分で寝る手のかからない子」ともっぱら評判のいっちゃん。

誰それ?うちの子? 

いまだにおっぱい大好き、寝る時は45分以上ちゅうちゅうしている(完璧に寝てるやんけ!と思っておっぱい離すと、怒ってのっそり起き上がり、パンチを繰り出しつつ 乳首を求めて口が彷徨う様は恐怖と絶望!)ことのほうが多いいっちゃん。保育園のなかった日は私も疲れ果ててるので一緒に寝てしまうこともある。寝かしつけに成功し、自由と勝利を噛みしめている時は、ダンナと晩酌しながら色々と話すことがリラックスできるし夫婦においてとても大切だとお互い認識している。なので、いっちゃん寝かしつけ目標の8時以降は予定を入れない

 

一人の時間を把握する

ストレス3bへの解答の為にも、自分一人でいられる時間を書き出してみた。現時点では、毎日の起きてからいっちゃんが起きてくるまでの間と月火木のいっちゃんが保育園に行っている間。

 

日曜日…0時間(私も寝坊したい)

月曜日…9:00-16:30 7時間半

火曜日…6:00-7:00と8:00-16:30 9時間半

水曜日…6:00−7:00 1時間

木曜日…6:00-7:00 8:00-10:00 12:30-16:30 7時間半

金曜日…6:00−7:00 1時間

土曜日…6:00−7:00 1時間

 

1日1時間とかマジか⁈と思ったが、大マジデス。逆に火曜は9時間半もあるのか⁉︎と驚キマシタ。1週間で27.5時間。

日曜日と水曜日はダンナが休みなのでちょっと公園に連れて行ってくれたりするけど、基本「家族みんなで行く」のが好きなので、めちゃくちゃタスクが溜まっていない限りはダンナといっちゃんだけでどこかに行ってもらう、という手は使いたくない。まぁ、理想の生活を手に入れる為にわざわざいっちゃん寝てから時間割いて時間割作ってるんだから理想を書き込もう。

さてさて、勘違いしてはいけないが、この一人時間=自由時間ではない。この一人時間で仕事、投資、家事、プロジェクトを行いつつ、精神衛生を保つために息抜きしないといけない。で、1週間に最低必要だと思われる時間数は

仕事…9時間 (請求書発行 2時間、会計処理4時間、マーケティング3時間)

投資…5時間 (会計処理1時間、リサーチ4時間)

料理・作り置き…4時間(2時間×2回)

掃除…4時間(2時間×2回)

 

 

2019年のスケジュール

あくまで現状の、実現可能と考えうる理想のスケジュール。