とある街での随感随筆

ぱっとみ専業主婦の感情と思考と生活の記録

愛の定義

コリント一 13:2-9,13

 

4節は最も有名なところですよね。クリスチャンでなくとも結婚式などで聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

 

でも今現在の、私の注意を引き付けたのは2節と13節です。

たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 2節

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 13節

 

ここ2、3日の母との静かなケンカは、私に毎日涙を流させるに十分なほどの悲しみでした。そしてそれは母にとっても同じ様です。

 

私は私たちが仕事の間東京に来ていっちゃんを見てくれないかと打診した時、教会のバザーが…と言った母に、瀕死の人を見捨てて(私としてはいっちゃんに最善の方法と思って母に予定を打診していたのでにっちもさっちも行かない気分だった)教会に急ぐ祭司の様だと非難した。そしてクリスチャンでない義理の母は二つ返事で引き受けてくれた、と後で連絡して、誰が私にとっての善きサマリア人だったのかを暗に匂わした。

 

そしてこのコリント一13:2と13が心に引っかかることで、またもや母の信仰を責める気持ちになっているのではないか、と気がついた。あなたの信仰は愛を伴っていない、と。実の娘である私とお祈りの果てにやっと授かったいっちゃんは、大きな愛情を受けて然るべきだと。ましてや、滅多に会えないのに、と。

 

愛は

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 5節

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 7節

 

私は母を愛しているので、たとえ彼女が私が望む様にはいっちゃんに接してくれなくとも、いらだたず、恨みを抱かず、それに耐えよう、と思う。悲しみは、感じてしまえばそれはどうしようもないので、主人といっちゃんとイエス様に慰めてもらおう。

ただ、今は信じるには傷つきすぎているので心の予防線のために、実家での滞在を最小限に留めるか、それとももう一度私たちが長く滞在する(そうはいっても6日位が限度)ことで母が喜んでくれると信じるべきか。

 

今日、やっておきたい仕事や家事は山の様にあるけれども、今、私にはイエス様の言葉が必要で、それでこうやって自分の感情をまとめている。そして、私の言葉によって傷付いている母を慰められるのも私だと思うので、(聖書の言葉に慰められているとは思いますが)、そしてこのエントリーを書きつつも涙が出るほどに静かに傷付いている自分のために、母に電話しようと思う。

 

 

どうして、お互いクリスチャンであるのに、こんなに傷付いているのだろう…

父が元気のない母を心配して、珍しく私に電話してきてケンカの事と次第を尋ねた。私は、公平だと思われる事実を父に話し、自分が感じたことも、こう思った、これは私の主観だが、ということをちゃんと付け加えて話した。話せば話すほど父は笑った。そんなの、お母さんをわかっているだろう、と。その後、主人にも母とケンカしたことを伝え、事と次第を公平に事実を伝えるべく努力しながら言った。父に笑われたことも。やはり主人も聴けば聴くほど笑いながら、おかあさんだね、と言った。一歩離れたところにいる主人と父にとっては、ほんっとうにくだらないことに見えているだろう。そして、おそらくそれが正解だ。

でも主人は私の気持ちを察してくれて、寂しかったんだよね、と一言言い添えてくれた。そこでやっと私の母への苛立ちが寂しさからきているものだと気づかせてくれた。

 

自分の感情の正体がなんなのかを正確に把握することは案外に難しい。

 

私のそれを的確に見抜いてくれた主人は、私をよく理解してくれているし、私の気持ちに寄り添ってくれていて、本当に感謝している。私はそこまで深く主人を愛せているのか、彼の気持ちに寄り添えているのか。

私に彼を与えてくれたことを神様に感謝しつつ、彼とはたくさん語らっていきたい。